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ライターは「リスナー」だと思う。

「自分が、文章を、生み出す」のではなく、「文章が、自然と、生まれてくる」感覚──

考える余白を大切にしたい。

ということで、今回文章は短めに。

「自分たちの声が届かないのは、自分たちの声が小さいからだ」って思って、どんどん声をでかくしていかねばって、高額の拡声器を買い続けるヤツと友だちになんかなりたくないですよね?(笑)

メディアの価値って、「声の大きさ」ではなくて、「耳の良さ」に宿るんですよね。

WEB記事「若林恵に聞く、テクノロジーとカルチャーで未来の都市を耕すには」(2020年07月30日)

この発言を見て、「書く行為」も一緒だと思った。

直感的に。

それこそ自分自身に耳を傾けて、問い続ければ、もしかしたら論理的に説明できるかもしれない。けれど今回はやめておこう(笑)

「書こう、書こう」と力めば力むほど、文章が書けなくなる気がしている。

そうではなく、もっと肩の力を抜いて、リラックスして、自然体な状態で、「書くこと」への意識が薄れたとき、不思議と文章が生まれてくる気がする。

そう、「自分が、文章を、生み出す」のではなく、「文章が、自然と、生まれてくる」感覚。

主語から「自分」が消える瞬間。それが大切だと思う。

それはまるで哲学者・ソクラテスのやり方のように。

ソクラテスの母親はお産婆さんだった。そしてソクラテスは自分のやり方を産婆術にたとえていた。たしかに、子どもを産むのは産婆ではない。産婆はただその場に立ち会って、お産を手伝うだけだ。

p.91「新装版 ソフィーの世界〜哲学者からの不思議な手紙(上)」(2011、著:ヨースタイン・ゴルデル、訳:池田香代子、NHK出版)

「書こう、書こう」という積極的な姿勢から遠ざかった分、大事になってくるのは、「リスナー」としてのスタンスだと思う。

冒頭でいうところの、「耳の良さ」である。

そしてこれまた大切だと思うのは、「聞こう、聞こう」と集中するのではなく、「注意深い」状態であろうとすること。

たとえば、向かい合った人に対して。
たとえば、周りの環境に対して。
たとえば、自分自身に対して。

この「注意深くあるという状態」については、坐禅の考えから学んだものであり、最後にそれを紹介する。

坐禅について、どうしても「集中」という言葉を使いたいのなら、自分が選んだ特定の対象に集中する普通の意味での一点集中型の集中ではなく、全てに集中するオープンな集中、焦点を持たない集中でなければなりません。

英語だと前者はpay attention to ~(~に注意を注ぐ という能動的な動詞 対象が特定される)、後者はbe attentive(注意深くあるという状態 対象は特定されない)という具合にそのあり方を区別できるのでしょうが、日本語ではうまい言い方が見つかりません。

p.272-273「現代坐禅講義 只管打坐への道」(2019、著:藤田一照、角川文庫)

p.s. ちなみに今回、『だと思う』といったような、断言を控える表現を多用したのは、自分自身がライターとして歩み始めたばかりで、これから考えが大きく変化していく可能性もあるからである。とはいえ、自分としては今のところ、一番しっくりと馴染んでいる考えでもある。

すべてに心からの感謝を込めて。

2020年09月29日(火)

Ryota Yasuda (Peco)